木村拓哉さん主演の 教場 を見ていて、「これってパワハラじゃない?」と感じた方、正直かなり多いのではないでしょうか。
怒鳴らずとも圧をかけ、精神的に追い込み、容赦なく切り捨てる――。
この記事では、風間公親の指導は本当にパワハラなのか、それとも必要悪なのかを、是非両面から考察していきます。
そもそも教場の指導はパワハラに見えるのか
一般的な感覚で見ると、教場の指導はかなり危ういラインです。
人格否定に近い言動、逃げ場のない心理的圧迫、説明のない評価。
現代の職場で行えば、ほぼ確実に問題視されるでしょう。
特に印象的なのは、生徒の努力や背景を考慮せず「向いていない」の一言で切り捨てる点です。
この冷酷さが、視聴者に“パワハラ感”を強く与えています。
説明もなくたった一言で済まされると「なぜそう言われたのか」を考えさせる意図であっても、その場の状況で否定と受け取ることもあるでしょう。
あえて誤解を与えるであろう「発言・態度」を取るのか。
視聴者に向けた謎解きなのかもしれませんね。
パワハラだと感じる理由【否定派の視点】
教場がパワハラだと感じられる理由は、大きく3つあります。
● 説明責任を果たさない
風間は、なぜダメなのかを丁寧に説明しません。
納得の余地を与えず、結果だけを突きつけます。
● 精神的耐性を過度に試す
訓練という名のもとで、生徒を意図的に追い詰める構造があります。
これは教育ではなく、精神的圧力だと見ることもできます。
● 逃げ場が存在しない
相談先も救済もほぼ用意されていないため、生徒は孤立しやすい環境に置かれています。
特に 教場Ⅱ で描かれた、平田一郎のケースは「本人の資質ではなく、環境が人を壊した例」として、パワハラ批判を強めました。
それでも「必要な指導」とも言える理由【肯定派の視点】
一方で、風間公親の指導を「パワハラではない」と捉える視点も存在します。
警察官という職業は、一瞬の判断ミスが命取りになる世界。
現場に出てから壊れるより、教場で壊れる方がまだマシという考え方です。
風間は、
- 怒鳴らない
- 感情をぶつけない
- 私情で評価しない
という点では、非常に一貫しています。
彼は生徒を支配したいのではなく、向いていない人間を現場に出さない という役割を果たしているとも言えます。
目的のために「感情の無い生き物を演じてる」と見えてしまうのは、私だけでしょうか。
風間公親はパワハラ上司ではなく「選別装置」
風間を“嫌な上司”として見ると、たしかに最悪です。
しかし視点を変えると、彼は個人ではなく、警察組織そのものを体現する存在だと考えられます。
- 感情より組織
- 共感より合理性
- 成長より適性
これらを極端な形で示す装置。
だからこそ、視聴者は「間違っている」と感じながらも、完全には否定できないのです。
教場が問いかけている本当のテーマ
教場は「風間は正しいのか?」ではなく「こういう世界で働けますか?」と視聴者に問いかけています。
パワハラに見える指導を「耐えるべき試練」と捉えるか、「許されない暴力」と捉えるか。
その判断自体が、私たちの価値観を浮き彫りにしています。
教場に限らず、耐えるべき試練と受け取るのか、そうでないのかは自分自身が決めること。
そこも含めて、視聴者へ問いかけているのではないかと思います。
結論|教場はパワハラか?
結論として、教場の指導は現代基準ではパワハラに該当する部分が多いと言わざるを得ません。
ただし同時に、警察という極限の職業を描くフィクションとして、あえてそう描いている作品でもあります。
つまり教場は、
✔ パワハラを肯定するドラマ
ではなく
✔ パワハラに見える現実を突きつけるドラマ
そのグレーさこそが、賛否を呼び、語りたくなる理由なのだと思います。
教場を視聴していると、胸が苦しくなる場面が多いです。
そこまでしないと、自分自身も誰も守れず、極限状態でも冷静に判断できないのかもしれません。
まとめ
教場はパワハラなのか?
答えは「YESでもあり、NOでもある」です。
風間公親の指導は、人を守るための選別であり、同時に人を壊しかねない危険な方法でもあります。
だからこそ教場は、ただの警察ドラマではなく、働くこと・組織に属することの怖さを描いた作品として、今も強く心に残るのではないでしょうか。